転失気

或る寺の住持が身体が悪いので、お医者をよびました。

住『サアサア先生、如何か此方へ、

医『モウ構はつしやるな。何か加減が悪いさうで……

住『いや少々工合がわるいのでお出でを願ひました。

医『それはいけませんな。兎も角、お尿を拝見いたしませう。

先生尿を見て、それから胸やお腹の加減などを診て居ました。

医『些と是は、お腹が張つて居りますな。如何でございます。転失気がありますかな。

此の時住持転失気といふことがわからないが、至つて負惜みの強い坊さんで分らないと言ふのが大の嫌ひ。

住『ハイてんしきでございますか

医『ございませんかな

住『ないことはございません

医『兎も角薬をとりにお遣しなさい。たいしたことはありませんから御心配に及びません。

住『それは有難うございます、只今お薬を頂きに参ります、御苦労様。

医者が帰つてしまふと小坊主を招んだ。

住『珍念や珍念や。

珍『ヘイ和尚さま、何でございます。

住『お前てんしきといふのを知つてゐるか。

珍『てんしきは存じません

住『知らない、知らないではいけないよ、おゝとお前今年幾歳になる。

珍『ヘエ十四でございます。

住『モウ十四にもなれば男一人前になりかゝつてゐる、其の位のことを知らないでどうする。

珍『ヘエ、それでは和尚様てんしきとは何でございます。

住『私が教へてはおまへの気に緩みが出ていかぬ。前の花屋へでも行つて、てんしきといふのを聞いて見なさい。

珍『ヘエ畏りました……何だらうなてんしきといふのは。

門前の花屋へ参りました。

珍『今日は

花『オー珍念さん何か用かね

珍『アヽ此方の家に何がありますが、コウとてんしきが

珍『てんしき?

珍『エー、ありませんか。

花『いや無いことはなかつたが、此間鼠が棚から落つことして毀して仕舞つたよ。

珍『エーそうで御座りますか、弱つたなア……ぢやないんで御座りますかね。

花『アー生憎だつたね

珍『そんなら和尚様にさういはう

珍念はソコソコと花やを飛び出しました。

珍『聞いて来ました、

住『どうだつた、花屋にあつたか、

珍『此間まであつたのでございますが、鼠が棚から落して毀して仕舞ったそうで……。

住『さうが、それはいけないね、それでは何しろ一寸チヨットお医者様へ行つて来なさい

珍『エヽ、和尚様てんしきといふものは何でございます。

住『わがらぬ奴ぢや、先刻も云つた通り、私がオイソレと云つて教へると、ぢきにお前は忘れてしまふ。何日も和尚さんに教はればよいと云ふ気になるからいけない。恰度幸だからお医者様へ云つたら、私が云つたといはないで、お前の心から出た様にして聞いて見なさい。

珍『へい

住『早く行つて来なさい。

珍『ヘーイ、行つて参ります。ハヽ是りや何だナ、和尚様も知ちないんだな、負惜しみが強いからあんなことを云つてゐるんだいナ……………。

珍『お頼み申します。

医『ドーレ、オ、お寺の小僧さんが、サアサア此方へお上り。

珍『エヽ先生

医『何だナ

珍『アノつかんことをお伺ひする様ですが、先刻和尚様にてんしきがあるかと仰つしやりましたがね、

医『あゝ

珍『私はてんしきといふものを存じませんが、どんなもので御座います

医『アヽお前は感心な小僧さんぢや、知らんことを聞くのは決して恥ではない。わからぬことは何でも聞いて覚えて置きなさい。てんしきといふことは放屁のことだ。

珍『エーツ、おなら……お尻から出る、

医『さうだ、頭から出る放屁といふのはない。

珍『ヘエ、放屁のことをてんしきといひますか、さうでございますか、ヘエー。

医『ひどく感心してゐるな、傷寒論に気を転め失ふ、即ち転失気とある。よく覚えておきなさい。

珍『ヘーエ、有難う御座ります。

医『ぢや薬を調合して上げる、是を持つて行つて煎じてあげなさい。

珍『ヘエ左様なら……。アハ面白いな、和尚さんは知らないんだ。門前の花屋でも知らないんだいから、鼠が棚から落して毀したなんて言つたんだ。放屁を棚から落す奴があるものか。

彼奴も知つたふりして知らないんだ。先生から聞いた通り言つて仕まつちやア面白くない。何とか言ひ様がありそうなものだな転失気……。

アヽあるある、私からお医者様に聞かして置いて、それでこうこう云ひましたと云へばさうだ忘れない様に覚えておけといふに違ひない。何だと云つたら盃のことだと一つ和尚さんを欺してやらう。それがよい。

珍『只今もどりました、御医者様に聞いて参りました。

住『何といつた

珍『ヘエ

住『ヘエぢやないてんしきといふものがわかつたか

珍『ヘエ、分りました。お盃のことだといふことでございます。

住『ナニ盃……ウムそうぢや、盃のことぢや、よく覚えておきよ、酒を呑む器、そんで呑酒器と書く、是から客来の時に呑酒器を持つて来いと云つたら盃を持つて来るのだ。

珍『ヘエ

住『忘れてはならぬぞ

珍『ヘッヘ……

住『何を笑つてゐる、それだから覚えないので、彼方へ行つてろ、盃のことをてんしきといふのだ。

珍『ウフ、あんなことを云つてゐる、

其日はそれで済みました。和尚さんは盃とばかり思ひ込んで居りますと、其翌日のこと先生又御見舞。

住『いや、是は先生、毎日御苦労様で……。

医『どうですな、御容子は?

住『有離うございます、おかげで大分お薬が利きました。時に先生昨日は呑酒器があるかとのお話でしたな。

医『ハアハア

住『その節は無いと申しましたが、実は御座りました。

医『それはそれは結構で御座います。

住『何なら一つ御覧に入れませうか、呑酒器を……。

医『いやどういたしまして、それには及びません、ありさへすればそれでよろしい。薬の方の加減を致しますから……。

住『ハハア、けれども是非一つ御覧に入れたいもので……珍念や。

珍『へー

住『呑酒器を持つておいでなさい。

珍『フフッ

住『何を笑ってゐる。

珍『ヘエ、只今……転失気を持つて行きや握り屁だ。

住『何をグヅグヅ云ってゐる。早く持つてきなさい、三組の方の呑酒器を……。

珍『三つ組ならブー、ブー、ブーだ。

住『何を云つてる。

やがて珍念桐の箱の中へ入れた盃を住持の前に持つて行くと、住持は自慢そうな顔をして居ります。

住『サア先生、此品で御座います。

医『イヤ是は恐れ入りました、何かな、この箱を明けると臭気が致しますか。

住『イヤ、是れはよく拭いて綿に包んでありますから、臭気は致しません。

医『ハハア、左様で御座りますか。

先生は様子がわかりませんから紐をといて蓋を払つて見ると結構な盃

医『ハハア、是れはどういふ……』

住『手前が大切にしてゐる呑酒器』

医『ハハア、妙なことをお尋ね申すが、愚老の方では傷寒論に気を転め失ふとある所から、放屁のことを転失気と申すが、寺では盃のことをてんしきと申しますかな。

住『エーッ……コレ珍念

珍『ウフッ

住『何を笑つて居る、馬鹿めツ……イヤ是は先生、沢山過ごすとブーが出ます。