支那の女優が、日本の芸者や娼妓と変らない営業である通り、舞台で芸を売るよりは、待合から待合、廊下の大鏡で、帯の恰巧と裾前の乱れ髪のほつれを撫であげあげ気にしながら、次から次ぎと転々と頗る多忙にお座敷を働くのが、当時線香の揚高、土地で一番の売れツ妓であるやうに、居間から居間と、暮六つから明七つの鐘を聞く頃まで、冷い、ひえ切つた臀の温まる暇もなく、お客の間を草履の音高く、廻り廻るのが楼内ではお職を張る、感心?な女郎であるやうに、彼等支那の女優も同じ芸当を演ずるので多忙である。
彼等は女優になるかと思ふと、公然と妓女の鑑札を受けて、廓内に出没する。
この点、日本のそれ等よりは公明正大であるが、余り褒めた話ぢやない。
女優ばかりかと思ふと、さに非らずで、支那では男優も、尻で光るのが多い。いや大抵な一流男優は尻の光りで、名をなすのだ。
今、第一に指折られる、帝劇へも出演したことのある例の梅蘭芳、彼だつて年の少い頃は、昔の若衆歌舞妓が、上野の僧侶相手に、湯島辺りに全盛を極めて居つたといはれる、女にして見まほしい振袖姿の蛍童などゝ、同じ所為をして、贔負の旦那方の御機嫌を取り結んでゐたのである。
支那の男優で、僅か十一や十二で急にメキメキとその名を売り出す裏面には、多ほくかうした事実がひそんでゐるのだ。
支那料理が、世界に珍として誇るに足ると同じに、こんな方面でもなかなかに研究を積んでゐる。
清朝の皇族、摂政王と年少男優揚月楼、一代の名優といはれる彼との関係など、余りにその浮名が有名となりすぎてゐる位だ。
その他、何某大臣と誰、曰く何といふ風で、かなりにこの方面での噂は、未だに残り、伝つて居る。
最も、支那には、つひ最近まで、首郡である北京に、相公(シャンコン)といふ男娼が許されて居つて、相当知名の人で、これらを知つて居ないのは恥として居た風習さへあつた。
公然と、彼等は、相公を芝居や物見遊山に連れ歩いたものである。
中華民国となつてから、宮廷の宦官と一緒に、こんな変性男子のやうな一部落の存在は、禁止される事になつたが、その代用を、相変らず、年少男優か努めてゐるわけだ。
(支那猥談集より)