京都遊女の名目

太夫

これは芸の上の名也、慶長年中迄遊女ども乱舞仕舞を習ひ、一年に二三度づゝ、四条河原に芝居を構へ、能太夫舞太夫、皆けいせいども勤めし也。尤大人歴々の御方御見物あり、種々の余情花麗なる事ども多かりしと也。去によりて今日の太夫は、誰が家の何といふ太夫が勤るなどゝいひしより、おのづから、よき遊女どもの惣名となりけるよし芝居相違なく仕舞候得は、太夫の遊女ともは、町御奉行所へ御礼に上る此例により今以て年頭八朔、両度づゝ御礼に上り申候。

天神

勤銀廿五匁なれば、北野の縁日に取て天神といふ、吉原には此名なし。

格子

京都の天神に同じ、大格子の内に部屋を構居る、局女郎に紛れぬやうに格子といふ名を付たり。

局女郎

勤銀二十目、局の構様は表に長押を付、局の広さ九尺に奥行二間、或は弐間半、亦横六尺に奥行二間にも造る、入口は三尺、。表通りは横六尺のうづら格子也、中闘と庭との堺に、二尺斗りのまがきを付る。但外より内へ入候へば左の壁際也、うづら格子への通ひに、巾二尺斗り長三尺の腰かけ板有り、入り口に、かちん染の暖簾を懸け、のれんの縫留に紫革にて露を付る、右局の、指図に記す事、詮なき事なれども元禄年中より局といふはすたり、総て吉原の古風取失ひし事多ければ、後々若輩どもの為に、是を記し申候、局上臈と申事に付、古老の申伝へたることあり、昔一の宮の御息所しかじかの事ありて、土佐の国畠といふ所へ趣せ給ふとて、彼所へは往得させ給はで、芸州の広島へ着せ給ひ此所に落魄の後に都の官女達、御息所をしたひて広島へ下り、みやづかひしたまふ。此時戦国にて又帰上り給はんとも叶はず広島にては彼官女達の居給ひし所なれば、局といひもて来りしより、扨又局上臈といふに付て、一つの拠あり、東山知恩院に開山円光大師の御伝記あり、忝なくも三代の帝王宸翰を染給ひ浄家に第一の宝也、此御伝に近世義山和尚の註解にて、行状翼賛といふあり、本文に播州室の泊りにて、一人の遊女元祖上人へ見え奉り、御十念を拝受せし事あり、此段の註に同書の九巻伝を引て、昔小松の天皇、八人の姫宮を七道に遣して、君の名を留め給ひき、是遊君の濫觴なりと、一書に遊女の家の長が先祖を註して、小松天皇姫宮玉判加陵風芳と云ふなり、江口、神崎、室、兵庫の傾城は此末也。

禿

未だ簪せぬ小女。

遣手

古来名を花車といふ、花に廻るといふ意か、然れども、くわしやと呼ては聞へあしきとて、香車と書かへたり。香車は将棋の駒の一つなれば、香車と呼ずして、やりてといひふれたり。