遊女、売淫の始り

いにしへより、けいせい遊女の称へ、世に伝へし事久し。異口には、傾城といひ、遊女といふに、隔別の義理ありといへども、爰にけいせいといひ遊女といふ、其品二つ有るなし。異国の妓女、本朝の白拍子、皆遊君のたぐひ也、爰に白拍子のおこりを尋るに、人王五十七代鳥羽院の御宇に当て、洛陽の島の千歳、和歌の前とて二人の舞女有り、いづれも双なき舞の上手也。是を白拍子の濫觴といふ、往昔延喜の帝り御時、江口の里に白女といひし、歌をよみ古今集に載られたり、同里の妙いづれもよく歌をよみて世に名を知られ、神崎の遊君宮木が歌は後撰集に入る万変集に遊び女の歌あり、

津の国の難波の事も法ならめ、あそびたはぶれ、まごとこそきけ(宮木)

いつちだに、心にかなふものならば、何かわかれの悲しからまし(白女)

元和の頃迄は古しへの白拍子の風儀残りて、京都武陽のけいせいは、小舞乱舞を習ひ、茶の湯数奇の道を常に稽古しけり。去るに依て諸の祝儀或は不時の催し結構にも、御歴々へ召され、御歴々の御給仕いたしたりしが、いつとなく風俗おとり、はしたなくなりしと、老たる者いひけり。慶長元和の頃は歴々の御方も兼日約束にて、いづれの日には誰が家何といふ丈夫が手前にて、茶の会に参るなどとて、心易き同志は誘引ありしと也、今に至る迄けいせいのお茶を挽といふも、此節よりの言葉なり。