一人の男が一人の女を完全に所有する─それは何といふ珍らしい、何といふ思ひ懸けない幸福であろう!彼はその幸福に酔ひ痴れて、昼はひねもす女の面影を心に抱き締めながら、うつらうつらと暮らした。が夜間は日が暮れてそろそろ同じ時刻になると、彼はもうぢつとして自宅なぞに座つてゐられないやうな気がした。と云つて、お粂の許へも、しばらく無沙汰になつてゐるだけに、何となく気がさして行きにくい。それに、小夜子といふものゝある以上、他の人間にはあまり会ひたくないで、仕様事なしに、土手の上でもぶらぶら歩くか、さもなければ、早くから蒲団を引被つて寝てしまつた。
やつと約束の日になつた。彼は日が暮れるのを待ち兼ねたやうに、母親の前はよい加減な口実を拵へて、そゝくさと家を飛び出した。長良街道では、その日の最終の乗合馬車に間に合つた。例の一軒家の前で降りて、又一走り藪蔭づたひに裏木戸へ廻つて見ると、かねて謀し合はせて置いた通りに、柱の古釘にちゃんと小さな毛絲の輪がかゝつてゐた。これは女の方で『毎もの時刻に出て行くから待て』といふ知らせであつた。彼はそれを握つただけでもう胸がわくわくした。が、心を鎮めて、その代りにもう一つ紙心撚りの輪を懸けて置いた。そして、半丁許り遠退いて例の土橋の上まで来てから、帯の間の時計を出して見た。八時廿七分!小夜子の出て来る迄には、まだ一時間半の余も待たなければならない、が、さうなると、待つのも左程苦痛ではなかつた。女は出て来るに違ひない。そして、あの紙心撚りの輪を見たら、こちらの来てゐることも知る筈だから!
かうしてその夜も二人は手を握り合ふことが出来た。が田圃の上では月でもあると却て人目に立ち易い。と云つて、納屋の中は、何時何んな用事で女中か作男が這入つて来ようも知れない。いろいろ考へた末、二人はだんだん大胆になつて来た。○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○、○、声さへ立てなければ、誰がその部屋に這入つてゐようとも、家の人達に知れる気遣ひはない。それに、その晩は小雨も降つてゐたので、迪也はとうとう思ひ切つてそこへ連れられて行つた。或ひは連れて行かせたと云つた方がいゝかも知れない。そして、暗闇の中で、咳嗽一つされない身の窮屈を忍びながら、果敢ない逢瀬を娯しんで、又こつそりと脱け出して来た。
初めてさういふ思ひをして、誰にも見咎められないで木戸の外へ出て来られた時は、腹の底からほつとした。そして、もう二度とこんな危殆い真似はすまいと思つた。が、危険はそれ自身一つの刺戟でもあれば、誘惑でもある。○○○○○○○○○○-○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○。○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。
で、さういふことの度重なるに伴れて、迪也はいつか顔こそ見ないが小夜子の父親の咳嗽払ひも聞いたり、母親との話声も耳にしたりするやうになつた。何日かなぞ、夜晩くまで帳簿の整理に起きてゐた父親が、何か見当らない物があるとかで、不意に隣りの仏間まで来て、襖の外から声をかけられた時には、暗がりの中で縮み上がつて、もう百年目だ!と覚悟した。が、幸ひその時は、小夜子が猶予なく起き出して行つて、捜してゐるものを見附けてやつたので何事もなく済んだ。済みは済んだものゝ、人の子を賊するばかりか、無断で他人の家を汚してゐたといふことは、深く彼の胸に徹へた。若し父親がそれと知つたら。何んな思ひをするだらう?考へて見ただけでも、彼は頬が熱くなるやうな気がした。時には又『なに、彼等は故らに俺と俺の母を遠ざけた。今その復讐を受けてゐるのだ!』と思ひ直しても見た。が、自分の心のどこを探つて見ても、小夜子を通じて、先方の両親に対しても、親しみこそ持て、曾て抱いてゐたやうな憎悪や、嫉視の念は露程も持つてはゐなかつた。つまり彼等は曩日の敵から更に憎悪の眼で見られない程、完全に復讐されてゐるのだといふことにもなる、迪也は相手が気の毒にもなつた。
(森田草平氏著輪廻)