源氏の君は内裏を出て左大臣の邸へ行つたが、
『今晩此処は中神の通ひ路になります。二条院もその方角ですから、何処か外へ行つて、お泊りにならなければいけません。』
と迷信の深い家来の一人が云つた。
『折角緩りとしようと思つて来なのだから、これからまた他所へ行く気にはならない。』
と源氏の君はうるさがつたが、朋輩の一人の紀伊守の家で、中川の川端に新築された家がありますから、其処へお出でになると好いといふものがあつたので、源氏の君は行つて見ても好いといふ気になつて、 『そんな気楽な所があるなら行つてもいゝ。』
といつた。実はそんなに考へないでも源氏の君の行つて泊る家はないでもないのであるが、偶に来たのに他の女の家へ行くのは葵の君に対して忍びない所もあつたのであらう。源氏の君は早速紀伊守を呼んで、
『おまへの家へ方除に行つて泊めて貰ふと思ふ。』
といつた。紀伊守は誠に面目あることだといつて主君の前を下りながら、
『少し困るのは私の親の伊予介の家の女達が占者に何か言はれて、その家にゐずに皆私の家に来てゐるので、狭い所ではあるし不都合がないかと心配する。』
と蔭でいつて居るのを聞いた源氏の君は、
『それが好いのだ、女が沢山来てゐるのは賑やかで私は好きだ。その女達のゐる几帳の後へでも一晩泊めて貰へば好い。』
などと諧謔を云つてゐた。紀伊守は早速使を家の方へやつて、万端の設備をさせた。源氏の君はそつと左大臣の家を出て四五人の供で中川の家に来た。家の中央の寝殿の東向の座敷に源氏の君の座がこしらへてゐる。蛍が沢山飛んで居て、川の水を引いた庭の様もよい。家来達は下を水が通つてゐる廊の間で酒をすゝめられてゐる。源氏の君は紀伊守の妹が容貌自慢の女であることを前に聞いたことがあるので、見たいものだと思つてゐると、この寝殿の西の方に女達のゐるけはひが聞える。襖の外へよつて見たが、灯のともつてゐる明りだけが射してゐて何も見えない。しかし女のするひそひそ話は聞える。
『あんまり早く御本妻がお決りになつたのであつけないことね、けれど隠じごとだつてお嫌ひの方ではないさうですよ。』
などゝいつてゐる者もある。源氏の君は藤壺の宮にあるまじき恋をして文などを送ることがこんな人達に噂されて居るのを聞いたらと思はず身が縮んだ。陛下の弟の式部卿の宮の姫君に送つた源氏の君の歌なども話の種になつてゐる。源氏の君が座にかへつて横になつてゐると、紀伊守の子などが可愛いゝ姿をして御簾の前を通る。内裏などで源氏の君の顔見知りの子もある。紀伊守の弟も交つて居る様子である、沢山の中で十二三の上品な顔をした子も居た。源氏の君は傍へ来た紀伊守に『あれは弟か、あれは息子かなどゝ問ふた。紀伊守は上品な顔の子のことを、あれは死んだ右衛門督某の子でございます。末子ですから可愛がられて ゐましたが、親に死なれてからは姉の縁で私の家に来て居ります。宮中へ出仕させたらためにもなるだらうと思ひますが、それもその運びになりません。』
と話した。
『可愛いさうな話ぢやないか、あの子の姉さんがおまへの継母か。』
『さやうでございます。』
『それは似合しくない継母だ。更衣に上げたとか右衛門督がいつてゐた様だが、その女はどうしたらうと何時か陛下からのお話のあつたことがある。その人が伊予介の後妻になつてゐるのか。運命といふものは解らないものだ。』
『不意にさういふことになつたのでございます。運命は妙なものですがその中にも女の持つてゐる運命といふものは一段気の毒なもので、自分の意志とはまるで違つたことにもなるんでございませう。』
『伊予介は大切にするだらう。』
『主人のやうにいたします。』
『何処にゐる、その女達は。』
『別の家屋の方へやつたのですが、そのうちにお出でになりましたのでまだ少しはこの寝殿にも残つて居りませう。』
と紀伊守はいつた。家来は皆酒に醉つて寝てしまつた。源氏の君は寝入られないで耳を立てゝゐると、この北の襖子の向側に人がゐるらしい。先刻の話の人の隠れてゐる処かも知れないと思つて、そつとその襖の傍へ寄つて見た。先程の子供の声で、
『姉さんはどちら。』
と云つてゐる。
『此処ですよ。お客様はもうお寝みになつて。私はおいでになる所に近いかと心配してゐたが、それ程でもなかつた。』
と今の子供の声によく似た声でいふのが聞える。
『廂の間でお寝みになりましたよ。』
と弟がいふ。姉と弟はそれから、成程お美くしいかただとか、私も昼なら見るのだけれどなどゝ話すのが聞えて来た。弟はその間の端の方へ寝るらしい。女は直ぐこの襖子を出た処あたりに寝てゐるやうである。
召使の中将が早やく傍へ来て寝てくれないと心細いなどゝ女は云つている。暫くして源氏の君はそつとその襖子に手を掛けて見ると、彼方から掛金がしてなかつた。開けた所には几帳が立てゝある。暗い灯の光りで着物などの入つた箱などが沢山置いてあるのが見える処を通つて、人のゐると思つた処へ入つて行くと、果して一人小さくなつて女が寝てゐる女の顔の上に掛けてゐた夜着を源氏の君が取るまで待つて居る。召使の中将が来たのだと思つてゐたのである。
『中将を呼んでお出でになつたから、私が人知れず思つてゐる心が通じたのだと思つて来ました。』
と源氏の中将は女に云つた。女は魘はれるやうに、
『あつ。』
と声を立てたが、口の処へ被けた夜着が障つて外へ声が聞えない。
『不意にこんな無作法な恋をしかけるとお思ひになるでせうが、私は久しい前からあなたを思つてゐて、その話をしたいために斯ういふ機会を作つたのです。決して浅い恋ぢやありません。』
と、やはらかな調子で男はいふ。
『それは人違ひでせう。』
と、やつと女は云つた。継女と間違へられたと思つたらしい。源氏の君は女の困つてゐる様子に面白味を感じるのであつた。
『人違ひなどすることもないのです。あなたはいゝ加減なことをお云ひになる。少しお話がしたいのだから。』
かう云つて源氏の君は小柄なこの女を抱いて自分の寝所の方へ伴れて行かうとした。丁度其処へ中将といふ女が来た。
『おい。』
と源氏の君はその女に声を掛けて置いて襖子を閉めて、
『明方にお迎ひにお出で。』
と云つた。中将は男が男であるから、騒ぐことも何うすることも出来なかつたのである。女は終夜泣いてゐた。暁方にまた襖子の所まで源氏の君は送つて行つて別れた。
(与謝野晶子氏著新釈源氏物語)。