『来る十六日に無菜のお齊申上たく候、御来駕においてはかたじけなく奉存候。月日、町衆次第不同。麹屋長左衛門。』
斯ういふ案内状が廻された。先代麹屋の五十年にあたるのであつた。
回忌も五十年になれば朝は精進しても、晩は魚類を出して歌酒盛するも差支ないといふ。これが最後の法事ゆゑ、少々の物入は心に掛けない万事はその積りでといふ主人の心得に、近所の女ども出入りの女房たちも二三日前から台所にあつまつて、諸道具の取さばき、一々の布巾がけその用意に忙しかつた。
樽屋の女房おせんも日頃懇意にしてゐる家である。せめて勝手の働きでもと、襷を袂に入れて手伝ひに行つた。おせんさんならソツはないとて、内儀も喜んで勝手働きよりは納戸にある菓子の取合を頼まれる。おせんは頼まれるまゝに、饅頭、御所柿、唐ぐるみ、落雁、と人数に合はせて縁高に菓子を盛り合はせて居た。
そこへ入つて来たのは主人の長左衛門であつた。棚の上に乗せてある七つ組合はせの入子鉢を取下さうと爪立する途端、手元が辷つて、器は結ひ立てのおせんが髪に落ちた。髪の結目が切れた。
『やゝ、これは飛んだ粗相しました。どこも痛めはしませぬか。』
と亭主がしきりに詑びあやまるのを、
『いゝえ、何う致しまして。』と、おせんには何んの仔細もなく、髪をぐるく巻き直して台所に出て行つた。
麹屋の内儀はおせんの髪を不審そうに見てゐた。
『おせんさん、お前さん髪は何うしたの、先刻まて綺麗に結ってゐなさったやうだが。』と、妙に底から見るやうな目付きをおせんに見せた。おせんは正直にありのまゝを話した。
『フン。』と聞いてゐたが、それは険はしい顔であつた。
『旦那も旦那だ。親の法事をするといふその日に。鉢が落ちたぐらゐで髪が解けまゝかよ。』と、等付けらしく薄唇で罵りながら、ブンブンして立つて行つた。
そして、その日一日は客の前、人の前、唯もう亭主とおせんに党り散らして、二人の中に仔細あると極め上げた口振りであつた。
おせんは恥よりも口惜しくなつた。勝気から顔色は静めて、穏和しく恥を忍んではゐるものゝ、余りに言葉すぎた邪推、胸の中は転倒するばかりに怒り立つた。それ程にいふならば、見事に非を遂げて、憎い内儀に鼻明かしてやりたいとも思はずにゐられなかった。私かに長左衛門を見ると、これも気の毒そうにおせんを見てゐた。
『何うせ、恥をかいた、身体だ。』おせんは外を忘れて、斯う一心に思ひ詰めた。
その後日が経つて、貞享二年、正月廿二日の夜であつた。
この一日は宝引縄、歌がるた、女が春のなぐさみに遊び暮らす日であつた。夜が更ける程遊び乱れて、負け退きに退くものもあれば、勝ちて飽かずに進むもある。また、遊びに草臥れて着所寝に鼾掻くものもあつた。
樽屋は日一日の働きに草臥れて、前後も知らず眠り伏してゐた。
おせんは夜更けの道を家へ帰へると、闇から男の声に名を呼びかけられた。それが、麹屋の長左衛門であつた。いやをいやで通しさうな男の素振りではなかつた。これが、初めて男の手に触つて。ひそかに暗がりを家へ引入れた。
間もなく、猛り罵ぶ樽屋の声が夜深を破つて家の外へ洩れた。