但馬屋は女づれ、男は清十郎一人であつた。春に酔ひ酒に酔ふ花見の若い人々は、小袖幕の外から、ソッと内をうかゞひ見て行くものもあつた。
清十郎は交るかわるの盃を引受け引受け飲むうちに、ツイ酔ひ頽れて、若気の広々しい野の中にそつと抜け出して、一人仆れて寝てゐた。蒼い風が折りおりその顔を吹いて過ぎた。
もう夕暮れといふ時、遠くから太い細い太鼓の撥音が野面を聞えた。それは斯ういふ遊び所を見掛けて、寄り来る太神楽の囃し音頭である。
萌黄を被つた、勇ましい獅子頭は陽炎のチラチラする緑野を跳り狂つた。女どもは騒ぎたつて皆その方へ走せ集つた。
おなつ一人幕の内に残つた。先刻から歯が少々なやむといつて、白い指に頬をおさへてゐた。帯のやゝ空解けしたのも知らず、被替の小袖をつみかさねた中に俯伏して、美しい眉をひそめてうづくまつてゐる。
野も海もうつすりと暮れ近い。浅い潮の匂ひをのせた大気は揺はすやうに菜の畑、麦の青い畑をつゝんで、次第に身のまわりにせまつて来る凝つと一つ所を見つめてゐると、やゝ冷やかな夕風が動くとも無く頬をなでて、心の底が美しく飢えたやうな気味になつた。遠い何所からか幽かに人の声が聞えて来る。
お夏は妙に佗しく悲しく心持であつた。又、自分一人物にはぐれたやうないらいらした気になつて、煙り立つた遠い野末を眺めてゐると、自然と心が重く曇つて来るのであつた。
清十郎は偶と目を覚して、おなつ一人が幕に残つてゐることに気が付いた。そして、松の繁り立つ小径を幕張りの方へと近寄つて行く。
松の間は濃い色に空気が凝つてゐた、砂地が薄暗らく暮れてゐた。
興半ばにして、獅子舞ひは曲の手をやめた。その時、清十郎は幕の外に立つて、何気なさゝうに雲に光る夕焼の空を眺めつくしてゐた。
女どもは残り惜しさうに太神楽の囲を解いた。
野は紫色にトップリ暮れた。
おなつは身体に空虚が出来たやうな、悲しい然し嬉しい思ひを駕籠にゆられながら姫路の家へ帰へつた。
同じ国飾磨の港から上みがた通ひの船が出る。
月のある晩、清十郎はお夏をソッと連れ出し、主人の家を奔つた。お夏はたゞ男のいふがまゝである。同じ苦しく住まば、せめて世を広くるる心だつたのである。その日一日は片浦の寂しき漁師町にかくれて、旅用意も薄く出船をまつてそれへ乗つた。
早船には乗合の人が詰めてゐる。伊勢参宮の親子づれもある。大阪の小道具売といふ目の険はしい若い男もある。奈良の具足屋、醍醐の法院高山の茶筅師、丹波の蚊帳売り、京の呉服屋、鹿島の言ふれ、国も言葉もちがふ人々の寄合ひであつた。
船頭は沖声はり上げて、
『さアさア出します。銘々さまの心祝ひだ、住吉様のお初穗願ひます。』
と乗合ひの頭数をよんで一人前七文づゝの集銭を柄杓に寄せ集める。そして酒の行く客は間鍋もなく小桶けに汲んだ濁酒を、肴は乾魚のむしり喰ひ、茶碗飲みして景気を付けるのであつた。
『お客様方ア幸福だ。風は真向だ。』
帆に八合ばかりの風をもたせて、やゝ小一里も沖に出た頃、胴の間にすくまつて居た備前からの飛脚男が、
『あ、失敗つた。あれほど気を付けて、刀の柄にくゝりながら、忘れて来た。』と、真蒼になつてうろたへ騒ぎ初める。
『飛脚殿、何を忘れた。』と口を出す人もあつた。
『大事な状箱、持仏堂の脇にもたせて置いたまゝだ。』と飛脚は鈍さうな顔を混雑させてゐる。
『さては、お前さん、何処ぞへ港で寄んなすつたな。』
『何有、ほんの些いとの間でした。』と艫へ上つて陸の方を見てゐる。
「はゝはゝゝゝ、あれだ。お前さん女の子に可愛がられなすつたに違ひない。』
『可愛がられるも、貴方、ほんの些いとの間なんです。』と泣きそうになつてオロオロ途方に暮れてゐる。
『好く魂を女郎の部屋に置き忘れなかつた、はゝはゝゝ。然し船頭どん外の事とも違ふで、まア仕方が無い。船を戻しておやんなされ。』
船中大笑ひしながら斯う言ふので、船頭は楫取り直して又もとの港へ帰へつて来る。乗合は首途の幸先を折られて、プップッ口小言をいつてゐた。
船が陸へ着くと、陸には大勢の男が待ち構へてゐた。
『この船だ、今出た船だ。些いと調べます。』と叫きながら、ドヤドヤと中へ入り込んで来た。何れも二人をたづねて但馬屋からの追手であつた
泣き叫ぶ二人は惨く引き分けられた。お夏はきびしい乗物に押籠め、清十郎は縄にかゝつて姫路へ引き上げられた、その様子気の毒と見る人も多かつた。
『清さま。』
『お夏さま。』
若い二人の声が闇を通して取り換はされた。