八百屋お七(西鶴好色五人女の内)

年暮も愈々二十八日といふ晩であつた。凄まじい火は破れて、本郷の高台をつゝんだ。見る見る烈風に焼けひろがつて、火は下町神田の方までなびくほどの大火であつた。家、道具を失ふは勿論、その為に焼け死ぬ人も少くはなかつた。

その本郷に八百屋八兵衛といふ商人が住んで居た。家も相応に暮らし素性もさまで賤しい者ではなかつた。その一人娘にお七といふのがあつた。色はやゝ薄黒いが、目凉しく冴えて、頸細く、その頃年も十六の評判娘てあつた。

火が家近くまで寄せて来る。お七は母親に引き連れられて、一先づ旦那寺の駒込吉祥寺に立退くことになつた。火を除けて寺々に難を凌ぐ者はこの二人ばかりではない。皆それぞれの所以をたづねて、寺々の宿坊はこれ等避難の人々で一杯になつた。

年頃の娘を持つ母親はなにかと気遣ひも多かつた。坊主とて油断はならない世の中だといつて、その目張り固く出入りに監督して居た。幸にこの寺には避難の人も少なかつた。

時は厳寒の十二月である。寺の住職は用意もない親子の身体をいたわつて、寺にあるだけの着換を出して貸してくれた。その中に梧銀杏のならべ紋つけた、黒羽二重の大振袖が一枚あつた。

お七何気なく取り上げて見ると、紅の燃える紅裏を山道に裾取つて、そればかりでも仔細ありさうな仕立方であるのに、何時誰の焚き掛けの残りか、軽い香の匂がホンノリと小袖を漂うて居た。

年頃と見れば丁度自分と同じ頃である。何所いかなる姫君の着馴れた小袖、そして、見るもつらき親々の嘆きを籠めた寺への納め物と、隅と思ひ付いてお七の心はやさしくも滞つた。歌の中の遠い人でもおもひ思ふやうに、お七は訳もなくその人が悲しくなつて、深い睫毛が曇つて来る。急に悄れ切つて、小さな肩からホッと神経質な溜息を吐いて居た。

『又、癖が初まつた。』

母親は野に通り雲でも翳すのを見るやうに、はしやいだり、沈んだり決まりのない娘の所作をこゝろ可笑しく眺めてゐると、お七はこれでも母親の珠数袋がら珠数など出して、暮れ方の空を眺めて悄々と口の内に小さな題目なぞ真面目さうに称へてゐた。

冬の日は匂ひ薄く暮れて、門前の淋しい表町から暮時のざわめきが幽かに幽かに空気を動かして来た。顔を撫でて来る薄暗の中に凝つとして聞いてゐると、それが遠い世の声でゞもあるやうな心持ちになる。

その時、本堂の障子を明けて、縁端に薄明りを追ひながら、銀の毛貫を片手に左の人さし指をいろつてゐる品好き若衆があつた。あるかなきかといふさゝくれ刺の指に立つたを気にして、切りとそれをさがしてゐるのであつた。

『どれどれ、私が抜いて上げませう。』

母親が毛貫を受取つて、さまざまに試みたけれども、手元が暗くはあり、年寄りの目では覚束なく見ふた。

お七はいつか題目も口の内に忘れて、自分ならこの目時の目で、ツイ訳もなく抜いてあげるにと思ひながらも、真逆に此方から近寄りかねて歯痒ゆさうに遠くから眺めてゐた。すると、母親は毛貫を娘に渡して抜いてあげろといふ。

『どんな刺?所何に。』

娘は頼まれ顔に立ち上った。

少年の撓やかな指は光るほど白かつた。そして、胎毛の細かい腕の肌は軟かにお七の腋窩に挟まれた。熱い呼吸が娘の額を掠めるやうにかゝつた。お七は自身の熱した血が、少年と同じく身体中に脈うつやうな気がするのであつた。刺を抜いた後の毛貫を態と心付いて自分の手に持つて戻つて来た。

『難有う御座いました。癒りました。』

と若衆は礼をいつて白い指を吸ひながら自分の部屋に帰へつて行く。

『あら。毛貫を。』

お七は斯ういひながら後を追ひかけた。そして、仄暗らい廊下でそれを少年に渡した。手が触つた。お七は訖とそれを握つた。そして蓮封らしく又パタパタと母の傍へ駈け戻つて来た。

お七はその日から少年の事を忘れ難くなつた。

× × ×

二人は言葉が無かつた。吉三郎は経机にもたれて、肱の間に頭を深く固く埋めて居た。お七はその肱を引つ奪くるやうに荒々しく外して、

『まあ、髮がほぐれるのに。』といふ。

吉三郎は切なげに顔を机から離した。息の乾いた声で、

『私は十六になります。』と俯向いていつた。

『わたしも十六になります。』

吉三郎は又いふ。

『私は長老様が畏い。』

お七又いふ。

『俺も長老様が畏い。』

そして二人ながら、俯向いて涙をボロボロ零してゐた。

雨は又はげしく降りそゝいで、神鳴が轟くやうに鳴り騒いだ。蒼白く射す稲妻は濡れた雨繁吹の中に、硫黄臭い匂を残してすぎた。